2013年6月 

 

 「オタクの本懐」



                                   iPhone5 


 地下鉄の駅で見かけた一枚のポスター。鋭利な刃物のクローズアップです。

「備前刀の系譜」

ああ、日本刀って本当に美しいですね。全国の好事家から集めた日本刀を、

一挙に公開!てか?

休日の朝、といっても目覚めた訳ではなく、夜勤明けだったのですが、朝寝も

せず、自転車でのお出かけを決意しました。


 さて名古屋市博物館かな?

ない。そんな催し。

まさか名古屋市美術館?工芸品まで展示する様になったのか?

ない。そんな催し。

ぐぐって見ると、結構意外というか、当たり前というか。

「徳川美術館」なるほど。

と、言う事は、日本中から名刀を集めて来た訳じゃないのか…。

あそこの収蔵品だけで、展覧会が出来るわけね。


 徳川美術館というのは、名古屋市東区、尾張徳川家の旧内屋敷。

公邸の方は、ただいま絶賛?建築中の名古屋城本丸御殿な訳ですが、こちらは

私邸なわけ。

東区のかなりの部分を占める、広大な屋敷であったらしいのですが、現在は

その一部が美術館として公開されております。

ナゴヤ人として、自慢していいと思いますが(いやこれは皮肉)、私はこの

施設にほとんど行った事はありません。

一度だけ行ったのは、

1963年(昭和38年)の暮。私は9歳であった訳ですが、行った事があります。

なんで年まで鮮明に覚えているかと言うと、この施設の正門の前で、1000円

拾ったからです。


 雪の日でした。なぜか徳川美術館に行く事になりました。同行したのが、

どういう人たちであったのか、とか、中の様子がどうであったのか、

とかは全く記憶がありません。

雪の下に、なんだか奇麗な紙が落ちているなあ…。と思って拾い上げると、

子供銀行みたいな、変な札が。

「あ!これ新しい千円札!」

新聞で見た日本銀行千円札C号券。つまり伊藤博文の千円札だったのです。



             史料映像


 初代内閣総理大臣。伊藤博文。

長州出身で、若い頃戊辰戦争の責任者として活躍し、華族となり、

政治家として活躍した人物。

そして、暗殺という非業の最後。

この政治家が、新しい千円札の肖像画として登場したのが、

昭和38年の11月でした。

拾った千円が、私が初めて手にした新札だったのです。

それまでの聖徳太子の千円札は、偽札騒動があり、よりカラフルに、

偽造が難しい札に代わったのです


 日本で近代以降の政治家がお札の図柄になったのは、これが最後

(他に、板垣退助100円札、岩倉具視500円札、高橋是清50円札)。

最近は思想家(福沢諭吉、新渡戸稲造、二宮尊徳1円札もあった)、

科学者(野口英世)、

文学者(夏目漱石樋口一葉、紫式部)が図柄となり、

以前からも神話上の人物(聖徳太子も実在を疑う説がある)が多かった

日本の紙幣ですが、功罪両面が必ずある政治家を図柄にする事は、もう

二度とないと思われます。ドイツなんか名画の肖像に限定してますしね。


 と、言う事で小学3年生の私は、この新札を近くの交番に届け、数ヶ月後の

連絡(持ち主が届け出ない場合、遺失物は拾い主のものになる)を

わくわくして待ったのです(結局get(笑))。

当時私の小遣いは一日10円。月300円でした。村の駄菓子屋で無駄遣いすると

あっという間に無くなる訳ですが、

1000円という纏まったお金は、見た事もなかった訳です(次は小6の時で、

修学旅行の小遣い(笑))。

だから、徳川美術館は鮮烈な思い出として記憶されていたのです。


 名古屋人もあまり訪れる事が少ないこの美術館は、元々個人の所蔵物を

公開するためのものでした。

個人と言っても、徳川侯爵。尾張徳川家の子孫です。

版籍奉還により、華族に列せられたとは言え、収入は激減した旧大名たちは、

先祖伝来の家宝を売りさばく事で、その生活を保った家が多かったと言えます。

秋田佐竹家の有名な

「三十六歌仙」は一枚ずつ切り離されて売りに出され、今では絵柄によりますが

一枚数億の価値があると言われます。


 尾張家も華族としては上流ではありますが、生活は苦しかったようです。

まあ使用人も多かったでしょうからね。

しかし、歴代の当主は出来るだけ財物の散逸を防ぎ、昭和6年に当時の侯爵

徳川義親の寄付により、美術館が発足しました。名古屋が焼け野原になった

空襲にも近くに三菱軍需工場があったにも関わらず、奇跡的に焼け残り、

現在の所蔵物を守りきりました。

所蔵物の大半は徳川家康の遺品で、他に尾張家初代徳川義直(家康の九男)

以来の当主が将軍家から拝領したもの。

その他明治以降に、各大名家が生活に困り売りに出したものを、買い取った

ものも含まれており、まとまった大名家の所蔵物、生活用品を集めた博物館と

して、日本唯一のものです。


 で、大名というものが、茶道具と並び熱心にコレクションしたのが、日本刀で

あった訳で、特に家康は最大の日本刀のコレクターでした。

日本刀は平安後期、つまり源平の頃から現在の形が登場しており、代表としては

伯耆国(現在の鳥取県)の安綱(源頼光が酒呑童子を切ったという、国宝童子切

の作者)がありますが、この頃から良質の砂鉄の出る所には、各所に刀鍛冶が

活躍しています。


 鎌倉期には幕府や、京都朝廷勢力による日本刀の製造が奨励され、有名な

後鳥羽上皇は自ら刀を打たれたと言われています(徳川美術館にも所蔵あり)。

山城の粟田口、備前一文字、また大和、美濃に名工が現れますが、特に相模の

正宗は、その後も匹敵するもののない作品を生み出したと言われます。

室町期にも多くの名工を輩出しますが、特に備前(岡山県)には、長船を始めと

する地域に多くの工房が興り、多くの名刀が生まれます。

江戸に入り、大水害で備前鍛冶が壊滅し、生産拠点が美濃に移るまで、備前は

名刀の代名詞でした。


 戦国期から江戸に至る大名たちは、こぞって、鎌倉から室町期までの名刀を

求めます。茶道具が個人の美意識に依存する面が多いのに対し、刀は

「殺傷する実力」がはっきり形に現れている点で、武士の価値観には判りやすい

面があります。特に貴族化する江戸時代の大名には、自分が人の上に立つ武士の

頭領としてのアイデンティティに近いものがあったでしょう。


 今回莫大な家康コレクションの一部を受け継いだ尾張徳川コレクションの

備前刀のみを数十振り公開した、この特別展は、当時の大名たちが、先祖の

時代。さむらいが真の暴力組織として活躍した時代の刀を、いかに熱心に収集

したかを物語っています。由来をみると

「誰それから誰それに受け継がれ、誰それが誰それから拝領」みたいな由来が

長々とかかれます。

例えばポスターになったのは、

「織田信長の愛刀であったが、明智光秀が安土城から略奪し、部下に与えたもの

が、巡り巡って尾張家の手に」という日本刀で、国宝です。


 これらの名刀がコレクションの対象に過ぎなかったのは、これらの古い刀が

「太刀」といわれる作りである事。

後の日本刀よりも長く、刃を下にして、腰に下げたものである事からもわかり

ます。

馬上の合戦が主であった鎌倉・室町期は歩行の兵士に届くよう、長い刀が

求められ、振り回す事が目的で、後の剣道の様な技は不要であったため、

片手で振るのにバランスのいい、奇麗な弧を描いた太刀が主流でした。

戦国以降は武士が最後の護身用に、腰から一瞬で引き抜く為に刃を上にして

帯に差し、両手持ちの

「刀」に変わります。実戦に用いるため太刀の丈を、切り詰める事もあったと

言われます。


 名刀と言われる太刀は、江戸期には完全な美術品として、財産視される様に

なり、殿の後ろに麗々しく飾られる象徴となった訳です。大名の末裔たちは、

そういう太刀を振り回すことすらない平和な時代に生きていたのです。

まあ、カミナリ族にも暴走族にもならなかった、我々世代のおじさんたちが、

退職後、いきなりハーレー買ったりする様なものかもしれません。


 今回拝見した備前派の名刀には、何本かの国宝が含まれています。上記の

信長愛刀も国宝ですが、これはむしろ由来の数奇さが手伝っている様な気が

します。あの光秀が部下にやったというのですから、最も信長が愛した太刀

ではなかったのかも知れませんけど。

「信長公愛刀!?凄いですぞ!光秀が略奪?!萌え~~っ!」という感じの

当時のオタク垂涎という価値は充分でしょうけどね。


 むしろ、その他の国宝の中に、居並ぶ太刀を圧倒する様な名刀がありました。

「これなら誰もが国宝と認めるしかないだらう」と思ふのです。

残念ながら写真撮影は禁止ですので、言葉で説明すると、

「樋」と言われる峰に走る溝(軽量化と刺した人体から抜きやすくする工夫)が

施された国宝はこれだけでした。


 注意書きに

「一般的に日本刀は、より鋭利に見せるための、独特な研ぎ方をしますが、この

美術館の所蔵刀は、江戸時代以降一度も研いでいません。当時の拵えを知る、

貴重な姿を残しています」とありました。

確かに写真によくある日本刀より、輝きは鈍く見えますが、研げば研ぐ程減ると

いう、鉄製品である以上、このやり方の方が正しいように思えます。

値段が付けられない国宝、重文クラスを始め、おそらく一本数千万だろうなあと

思われる太刀を何十本もみる事が出来、

「眼福とはこういう事をいうのだなあ」という一日でした。

1200円という入場料は高いとは思いませんでした。


 帰りには、

「武士にとっての日本刀は、俺にとってなんなのか?」と考えながら、ペダルを

こいでいました。

Macか?iPhoneか?カメラか?

実用としての工芸品の美としては、自転車もその一つでしょう。

高価なロードレーサーや、マウンテンバイク、シクロクロスでなく、日本が

国内でフレームや部品を製造していた時代の、普通のママチャリ、

言ってみれば、刀匠の一点ものではなく弟子たちの工房による

「数打ち」に過ぎない量産品が、私には、本当に愛着のある品になって

しまいました。



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 その後、前に立ち寄った自転車店に行きました。

前回店主が留守だったのですが、今回はおられたので後輪のギア=スプロケット

交換について訪ねました。

「シマノだから今部品ありますよ。20枚の」私のは普通の16枚ですので、

この交換だけで、かなりローギアモードでの上り坂は楽になるはずです。


 帰りの道が楽だった事は、言うまでもありません。初めて家まで、降りて

押す事が、一度もありませんでした。

もっとも最後の坂は流石に苦労して、翌日膝が笑いました。

もう二度とやりたくないです。

あと5kg痩せたら、これも楽勝かも知れませんけどね。

 
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