ささやか写真館


2004年10月

                題名「夢の電車」
  
  

                                 Fuji FinePix F601
  
   子供の頃、普通の子供だった僕は、各種の乗り物に夢中だった。パトカー、消防車、タンクローリー
  祖父は、ほとんど毎日のようにおもちゃを買ってきてくれた。それは母が入院し、横浜の祖父の家に
  預けられた3歳ぐらいの記憶である。母は僕を産んだことで腎臓をいため、それから実に50年に渉る
  闘病生活を先日終えたのであるが、最初の入院の際、私はまだ高校生だった叔母に連れられて、
  「準急東海号」に乗って6時間ぐらいかかって、横浜に行ったのだった。車内販売のアイスクリームを
  買えと叔母に言って「ダメ」と言われ、怒って叔母の手に噛みついた事を、いまだに言われる。
  思えば質素な時代で、アイスクリーム1個が高校生の1ヶ月の小遣いに匹敵したのでは無いかと思う。
  まあとにかく、そんなわけで僕は祖父・祖母に大変かわいがられて育てられた。母がいない分、溺愛
  してくれたと思う。北原コレクションに入りそうな50年代の乗り物Toyを沢山持っていた。
  そういうおもちゃのほとんどはもう詳しく思い出せないが、一つだけ覚えているのが、「乗物絵本」
  である。これは、おそらく名古屋に持って帰ったからであろう。あと「源義経」という絵本も記憶が
  ある。こういう歴史物は祖父の趣味だったのだろうか?あまり祖父の記憶はない。
  祖父は東京オリンピック開催中に死んだ。葬儀の帰り、僕は小学校でもほとんど誰も乗った事の
  なかった、「新幹線」で名古屋に帰った。新幹線は「夢の弾丸列車」という名前で「乗物絵本」に
  のっていたが、あの形ではなかった。もっと現実的な列車として、絵本の花形だったのは、
  「名鉄パノラマカー」だった。この赤い列車は3歳の僕の憧れの列車だった。同じ絵本には、
  「小田急ロマンスカー」も「特急こだま」もあったが、僕には無縁だった。「こだま」には乗っても
  よさそうなものだったが、当時の名古屋←→横浜の旅では、特急と準急の所要時間はどちらも所詮
  「1日仕事」で、コストパフォーマンスが悪かったのだろう。新幹線になると、流石に人々は
  時間を金で買うようになったのだ。
  その点パノラマカーは、身近な憧れだった。運転席を屋根の上に追いやり、前面を客に開放した
  先頭車両に乗ることは、子供の頃の夢だった。電光掲示で速度が表示されるのも素敵だった。
  モンキーセンター、ラインパーク、三河の猿ヶ島、うさぎ島。知多の海水浴場、一宮の伯父の家。
  パノラマカーとの想いでは沢山ある。いつも楽しい思い出だった。
  この歳になって、毎日パノラマカーで通勤する事になろうとは、夢にも思わない少年時代だった。
  特急列車の座を「2代目(3代目?)パノラマカー」に譲った僕のパノラマカーは、普通列車で
  毎日、名古屋本線や犬山線を走っている。僕の降りる小さな駅を、特急列車が通過していく。
  あんな白い奴は、パノラマカーじゃない!僕は赤いパノラマカーに乗って通勤している。
  運転士にはあの高い位置から、各駅の小さな駅にピタリと停止するのは、結構大変なのではないか
  と、思うな。もうしばらくがんばって欲しい。
  かつて絶大な人気だった歌手が、場末のキャバレーで歌っているようなおちぶれ感がないでも無いが
  今この赤いパノラマカーを運転している人達は、この列車に憧れて名鉄に入った人達だと思う。
  と言うわけで、皆様も名古屋においでの際には、ぜひこの名車に乗ってみてください。
  名鉄新名古屋の地下駅で、普通列車を待っていると、1時間に1本は来ますよ。
 
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