ささやか写真館


   2007年12月

            題名「おいでませ」


 
                           Tokina AF 19-35/3.5-4.5

  お正月と言えば初詣ですが、皆様はどちらに行かれるのでしょうか?
 私はシントイストでもブッディストでもないので、詣ではしないのですが、ここ数年大晦日の
 晩、年が明けてから近くの神社に出かける事にしています。
 私の住んでいる村には立派な氏神があり、昔はまさに鎮守の森の中に沈み込む様な古い社。
 トトロがいそうな場所でした。
 今は立派な主殿が出来、木も大分切られてしまいましたが、隣接した名古屋農業センターから
 つらなる見事な雑木林を上手く使って、熱田の森を除けば都会としては例外的な森の神社です。
 私が大晦日の晩ここへ行く様になったのは、お参りではなく電球でライトアップされた参道の
 なかなか幻想的な風景と、周辺の集落や団地から三々五々訪れる人々の、
 「今年が良い年であるように。」という願いが姿に溢れた情景が見たいからです。

  名古屋で初詣と言うと、いわゆる尾張五社、それから大須観音ですかね。
 大須は、お参りのついでに門前町で買い物。というパターンが昔からありますので、これは
 元旦開けた日中でしょうが、冷えきった空気の中で詣る、夜の神社もいいものです。
 尾張五社と言うのは調べたところ、

 真清田神社(一宮市)
 「尾張一宮」という位で、昔国司が赴任した時に最初に参詣する神社だった。
 主神の天火明命は海人系の太陽・農耕神で、古代豪族の尾張氏の祖先神と言われている。

 大縣神社(犬山市)
 主神は大縣大神(大荒田命)。尾張国開拓の祖神であり、もっと古い神である。
 またここには娘の玉姫命が祀られており、この神は安産の神である為、女性にちなんだ
 奇祭があるが、詳細はあえて略す。田縣神社の男性にまつわる奇祭と並んで、外国人
 観光客に圧倒的な人気がある祭である。

 熱田神宮(名古屋市熱田区)
 ご存知熱田神宮は「三種の神器」の一つ、草薙の剣を主神としている神社である。

 国府宮神社(稲沢市)
 はだか祭りでおなじみの国府宮神社(尾張大国霊神社)は名前の通り国府に祀られた
 神社で、主神は尾張大国霊神。

 まではだいたい同じで、あと一つが
 津島神社(津島市)
 登場するのは遅く、建速須佐之男命(スサノオ)と大穴牟遅命(大国主)を祀っている。
 この2神は天照大神の天孫系にとっては、反逆者的性格を持つ大物なので、一種の
 祟り神的に鎮護されたと思われるが、建速須佐之男命は仏教守護神の牛頭天王と
 習合され、祇園八坂神社とともに、疫病を鎮める寺・神社として広く信仰された。

 針綱神社(犬山市)
 犬山城内にあり、主神は尾治針名根連命と父の尾綱根命。

 田縣神社(小牧市)
 田縣神社も玉姫命が祀られ、また男神の御歳神を祭り、道祖神的な神であったようである。

 のどれかが入る様です。時代によっては、
 千代保稲荷神社(岐阜県海津市)
 「おちょぼ稲荷」と愛称され、伏見、豊川と並んで日本三大稲荷の一つと地元では
 言われるが、伏見、豊川に続く3つめは、どうやらそれぞれの地元の稲荷を入れる
 様である(笑)。稲荷神は、平安遷都の黒幕として知られる渡来系大豪族秦氏が
 持ち込んだ農業神と言われ、現在では商売繁盛の神様として、オフィスビルの屋上にも
 祀られている。

 を入れる事もあるそう。

  神社というものは、基本的に祖先の英雄を祀った宗教施設だと言えますので、当然祀った氏族、
 その英雄=祖先神が活躍した時代があると思います。そして尾張のような平野部では、神は
 基本的には農業神で、開墾を指導した偉大な指導者が祀られる訳ですが、どうも大縣神社と
 田縣神社に祀られた神が最も古く、おそらく弥生時代からの農業神だと思われます。

 次に尾張氏の支配が始まり、各地の大豪族とつながりを持ちながら、開拓を進めていきました。
 この時代に真清田神社の元が出来たと思います。真清田神社の神である天火明命の十四世の孫が
 針綱神社の尾治針名根連命で、実質的な歴代尾張氏支配者の象徴であったと思われます。

 その後大和の天孫系の神を信仰する朝廷が勢力を伸ばし、悲劇の大征服王「ヤマトタケル」の
 愛剣を祀った熱田神宮が登場。朝廷の代理で国司が赴任する様になると、支配の象徴としての
 「尾張大国霊神」という、人格を感じられない神が祀られたのではないかと思います。

  なんで長々と各神社の由来を書いて来たかと言うと、前述の近所の神社の名が、
 「針名神社」。主神が
 「尾治針名根連命」で、検索してもこの尾張氏の氏神は、犬山の針綱神社と、
 この針名神社にしか見受けられないのです。
 古代豪族尾張氏は、朝廷の尾張支配の中で次第に消えて行きました。早い時期に朝廷に恭順した
 功績からか、熱田神宮大宮司職を授かりましたが、後にこの職は藤原家のものになり、
 現在では尾張姓を名乗る人は名古屋にも殆どいないのです。
 天白区の島田というところで勢力を張った嶋田氏が尾張氏との抗争に破れて海部郡に去ったという
 伝承があるように、この地はかなり氏族の入れ替わりが激しかった様ですが、なぜこの地の人々が、
 1000年以上もこの神を祭って来たかはよく判りません。
 針綱神社は父子を祀っているのに対し、この神社は子の針名根連命だけを祀っているので、
 父の命を受け、或は父に逆らって、東に東に開墾地を拡大した英雄的な息子がいたのでしょうか?
 ともあれ恐らくこの地は尾張氏の東の辺境であったのでしょう。

  地図を見て奇妙な事に気づきました。犬山→小牧→熱田とほぼ北から南に垂直に結ぶと、
 五大社とその他の有力神社が全てその西側にあるのに対し、東側では、知立の池鯉附神社まで、
 大きな神社は全くありません。その意味では、この地域では出色と言える由緒と主神をもつ
 針名神社が、もっと有名になってもいいのではないかと思います。
 まあ半分は地元贔屓ですが(笑)。

  針名神社のすぐ隣には、静岡の秋葉山の分山である秋葉山慈眼寺があり、こちらも
 平安時代からの歴史があり、織田信長が戦勝祈願をして桶狭間の戦いに勝利したと言う寺で、
 こういう事も、もっと知られてもいいのではないかと思います。
 
 清洲をたった信長は熱田神宮で戦勝祈願をしたと言われますが、そこから桶狭間(豊明市)に
 行く途中、東海道ではなく飯田街道を通って天白区平針の秋葉山に寄るのは一見遠回りに
 思えますが、信長が桶狭間を目指したルートは明らかではありません。
 熱田から東海道を東に進んだのでは、いくら油断した今川軍でも気付くと思うので、案外
 平針から南下し、現在の名古屋市緑区界隈の道無き道を縦断し桶狭間へ突入、敵の背後を
 突いたのかも知れません。
 若い頃、馬に乗って尾張を駆け抜けていた暴走族信長なら、このあたりの 山間の
 「けもの道」を知っていたとも思えます。
 また、今川氏の本拠地である駿河の秋葉山伏の諜報能力を用いた可能性もあります。
 ちなみに名古屋には熱田神宮の近くにも秋葉山があるのも符号が一致します。

 大晦日の夜、秋葉山では盛大なたき火を焚き、甘酒も用意されています。

  いままで単なる
 「村の社」だと思っておりました針名神社(と秋葉山)ですが、全国に2861社しかない
 「式内社(927年の延喜式で定められた神社)」であり、
 「1100年の歴史を誇る古代豪族尾張氏の氏神にして豊作の神」と、
 「覇王信長の劇的勝利の寺」の最強セットである事がわかりました。
 激動の2008年の祈願の地としては充分なご利益がありそうですよ。

  

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