ささやか写真館


   2007年1月

               題名「装置」

 
                                Tokina AF19-35/3.5-4.5

  実は先月の写真から数時間しか経っていないのですが、新年の深夜に今年も近くの神社に行きました。
 私は"Shintoist"では無いので、特に「初詣」という習慣はありません。
 前にも書きましたが、私の住んでいるのは、元は古い農村で、いわゆる「鎮守」「氏神」があります。
 鎮守とは災害や不作から村を守り、災いを鎮める為の装置。氏神とは祖先神で、子孫に繁栄を約束する
 装置です。鎮守としては竜神などが多いですが、これは水田耕作には水が不可欠である事から、
 蛇神の究極の姿である竜に祈りを託した物と思われます。他の地方の神を勧進することも良く行われ、
 菅原道真を祀った天満宮が各地に多いのも、雷神=雨の神だからです。神仏習合により、観音信仰、
 修験道なども、この鎮守的性格を与えられました。私の住む村は、ある時期に強力な鎮守の誘致に
 成功しました。
 「秋葉山三尺坊大権現」修験道の世界の大看板であるこの寺(権現だから神社でもある)は、村を
 護る巨大な装置であったわけで、静岡県にある本山の分山が、なぜここにあるのかは判らないが、
 一つの山を廻る大きな施設が、村民の承諾無しで出来る訳もなく、待望の勧進であったろうと
 推測できます。
 この寺に登る中腹に「白竜」の祠があり、これが本来の鎮守であったろうと思われます。
 
  一方氏神の方は、文字どおり「針名」です。針とは墾つまり新しく開墾された農地であることを
 示し、江戸時代の「新田」より古い時代に拓かれた田畑であることを意味します。
 名は名田であり、名主(現地管理人)よって管理(支配)された荘園であることを示すのでしょうから、
 おそらく、この地は平安時代から鎌倉期に開墾された荘園だったのだろうと思われます。
 戦国の頃には小さな城があったと言い伝えられていますから、秋葉山のある山頂にあったのでは
 無いかと思います。その後、江戸期に秋葉山が勧進されたのではないでしょうか?
 氏神は村の団結を護り、収穫を約束する祖先神ですが、八百万神としてアマテラスを頂点とする
 ピラミッド型ヒエラルキーに組み込まれ、それは大和朝廷の征服の歴史でもあります。
 この神社にも天孫族に近い神がまつられていますが、恐らく「マリア観音」の様なもので、実は
 祖先神への信仰は形を変えて、残ったものと思われます。この状況は支配者にとって好ましいものでは
 ありませんので、盛んに神を与え、格のある神社に奉じ、また仏寺を建立して信仰の均質化を
 目指したのではないかと思います。
 こうして氏神を祀ることの意味は次第に薄まって行きますが、その神の居ます所の設計は、かなり
 忠実に踏襲されていきました。

  鎮守は目立つところにあり氏神はその周辺に森を伴って配置されます。まあ山林なので村にとって
 無価値な敷地であったでしょうが、農業技術が進むにつれて、「もったいない」状況になったと
 思われます。それでも信仰と「祟り」への畏れで奇跡的に残った空間、それが境内です。
 もともと神聖さを形で表すための装置ですから、一切の俗は排除され、祭りの時にはかなり俗っぽい
 世界が展開される境内ですが、本当の聖地には人さえ立ち入ることを許されません。
 私が覚えているこの神社、40年前のこの神社は、鬱蒼とした森に抱かれた、屋根に千木を抱き、
 高床式の神明作りの小さな祠と、確か神楽が奉納されるかなりしっかりした能舞台?を持っていたと
 記憶しています。
 現在では人が多く集まりやすいよう、かなりの木が失われ、写真のような仏閣風の拝殿が出来て
 おりますが、それでもここの境内には、自然と祖先を崇拝した古代日本人が、何を聖としたかが
 垣間見られます。
 真夏でも明らかに気温が低く、それは科学でも証明出来ますが、もっと霊的な呼び交わすものが
 そこに溢れる瞬間があります。
 今回「のだめ」を読んでいたせいで散歩の出発が遅れ、人影もまばらでしたので、去年の太鼓が
 鳴り響いていた境内に比べ、更に神聖な気が漂っておりました。

  最近「パワースポット」と称して、神社を廻るのが流行っているそうです。
 東京にある強力なパワースポットと称する神社の映像を見たことがありますが、悲しいことに
 おみくじやお守り売り場が大々的におかれた俗な空間でした。
 本来の神道の神は「御利益」をもたらしません。
 災いを「鎮め」、子孫を「護る」だけです。
 そのための神聖な装置が神社です。
 神聖さを演出する装置が、たまたま現在では自然保護の機運と結びつき文化が保護されるのは
 素晴らしいことですが、都市化の中で切り取られ切り取られて、ようやく残った、数十本の木と
 10m四方の小さな神社でさえも、この力を感じさせます。この力は「Power」というような
 御利益をもたらす現世的な力でなく、そこに存在する事自体が貴い、「気」に近い物だと
 思います。
 私はシントイストではありませんので、そこに神が坐す、とは思いませんが、
 賽銭をあげて今年の繁栄を願う人々よりも、この神社を残してくれたこの地の先人の願いは
 感じることが出来るのです。
 信仰する物があり、その対象の神秘性・神聖性を高めるため、出来うる限りの装置を作る。
 それはきらびやかな人工の美を誇る寺院とは対照的に、出来るだけありのままに飾らない自然を残し、
 大気の精を集める装置であったのです。
   
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