ささやか写真館


   2006年3月

                  題名「昭和の色」
 

                                HEXANON 38/2.8

  昔々、あるところに農家のおばちゃんがおりました。おばちゃんの旦那さんは、戦争に行って
 帰って来ませんでした。おばちゃんは、女手ひとつで子供たちを育て上げ、ようやく
 おばあちゃんになり始めるところでした。ああ一安心、これからゆっくり故郷で老後を過ごそう。
  ところが、とつぜん故郷がダムの底に沈む事になりました。
 当然腹が立ちます。反対運動をしたいとも思いました。でもどうにもならない事でした。
 でも、このまま村がダムの底に沈む前に、何かしておかなければならないのではないか?
 おばちゃんは考えます。
 「もし、うちの人が戦争から帰ってきたとき、村がダムの底に沈んでいたら、
   何も見せるものがない。」
 
  おばあちゃんは、居ても立っても居られなくなり、近くの街のカメラ屋に飛び込みます。
 「イラ(私)でも写せるカメラをおくれ。」
 カメラ屋の若い店員はこういいました。
 「これは猫がけっころがしても写るカメラだよ。」
 店員が差し出したのは、コニカC35EF、通称「ピッカリコニカ」だったのです。

  コニカの開発者、内田康男さんは、各地のラボを回り、普通の人々が撮ったネガをつぶさに
 調べました。その結果、カメラの性能が上がって来たにも関わらず、撮り損ないが実に多い事に
 気がついたのです。ほとんどが露出不足、つまり光量が足らない写真でした。
 この頃のカメラはすでに露出が自動化されていたのにどうした事か?
 実は、ストロボを使っていれば避けられた失敗がほとんどな事に、内田さんは気づいたのです。
 こうしてストロボ内蔵のカメラの開発が始まりました。ストロボとレンズが近いため、被写体の
 目が赤くなる「赤目現象」が最後まで開発陣を悩ませました。またストロボの消し忘れで電池が
 すぐ無くなる事も深刻でした。延々と続く開発会議の末、一人が、
 「あ、ストロボをポップアップさせて、それがスイッチを兼ねれば。」と思いついた時の、
 全員の興奮状態を、内田さんは忘れる事ができないと語っています。
 暗いときにはストロボを使えばいいので、その頃としては暗いF=2.8のレンズを使う事になりました。
 その頃は、まだISO400の高感度フィルムがありませんでしたので、当時ハイスピードレンズと
 言われた、なるべく明るいレンズ=速いシャッタースピードを使える1.8位のレンズを
 ファミリーカメラでも装備するのが流行でした。
 しかしこの暗いレンズ。F値を上げるため無理をしていない設計のヘキサノン2.8が、後世に残る
 美しい写真を残す事になるのです。

  世界で初めてストロボを内蔵したC35EFは、こうして世に出ました。
 ピッカリコニカは大ヒットし、沢山の家庭に届けられ、沢山の美しい思い出を残しました。
 そして、その1台が、徳山村の61歳のおばあちゃん、増山たづ子さんの手に渡されたのです。

  増山さんは故郷の写真を撮り始めました。移り変わる四季、農村の生活。山里に暮らす寡黙で
 心優しい人々。子供たちの学校。
 この村がダムに沈むのを残念に思う人々によって、静かに増山さんの写真たちは広まりました。
 有名な写真家や報道カメラマンがこの村にやって来て写真を撮りましたが、風景も人物も、
 増山さんの写真程優しく写りません。それはカメラの後ろにおばあちゃんがいることで、
 写るものが緊張しないからですし、故郷を愛する増山さんの心、故郷を失う悲しみが、写真に
 込められているからでしょう。
 そして、なんの変哲もないファミリーカメラと思われていた隠れた名機、コニカC35EFも、
 おばあちゃんに最大限応えました。増山さんは言っています。
 「このカメラで撮った写真は、写真展用に畳2畳ぐらいに引き延ばしても大丈夫。」
 
  先日増山たづ子さんは88歳でダムに沈んだ村を見る事なく永眠されました。61歳からカメラを
 持ち、撮った写真8万枚。
  そのわずか数ヶ月前、コニカミノルタはカメラ事業からの撤退を発表しました。

  増山さんの愛機、「ピッカリコニカ」C35EFで、ようやく暖かくなった春の日に、公園の
 梅祭りを撮ってきました。
 一生懸命昭和を生きてきた人達の、昭和の色が写ります。

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