キョンシーSの
     ピンポンダッシュ!


      ★011 「The Last Samurai」について考える


 さすがに映画館に見に行く気にはならなかった。映画館は本当にいい。独特の雰囲気。始まる前のわくわく
 した感じ。大きなスクリーン。大音響。でも高すぎる。せめて1000円なら、月1回ぐらい行くのに。
 この間、「ロード・オブ・ザ・リング 2つの塔」をDVDで見て、もう少しで第3作を見に行くところ
 だった。街でただ1館だけ、未だに1日1回だけ上映している映画館があったからだ。でも、1800円は
 出せない。今の僕の2日分の生活費。
 この映画も大画面で見たかった。ニュージーランドの渓谷を利用した、素晴らしい戦場シーン。日本では
 もう黒澤がいないから、撮られることのない大規模な合戦絵巻(大分CGで増やしたらしいけどね)
 
 ま、DVD発売&レンタル開始の前夜にレンタル屋に行ったら、もう並んでたので大枚350円(昼食代 )
 はたいて、借りましたさ。さて、この映画をハリウッドが作る意図がよくわからない。
 「さむらい」を描きたかったのだろうが、彼らは「さむらい」って何だと思っているのだろうか?
 主人公は南北戦争や対インディアン戦争に活躍し、ウィンチェスター社の広告塔になっている元軍人。
 飲んだくれながら、彼は先住民インディアンを無差別に殺戮した事を悔やみ、彼らの文化に密かな尊敬を
 抱いている。そんな彼に「日本に行って西洋式軍隊を訓練しないか?」という話が舞い込む。
 彼は農民出身の兵隊を訓練し、一人前にしようとするが、試練は早く来すぎた。明治政府に反抗する
 「勝元」という男の率いる武士団と戦い、未熟な兵隊達は散々に破れ、主人公は殺される寸前、勝元に
 助けられ、彼らの村に連れて行かれる。やがて、江戸(戦国?)時代さながらの暮らしをする彼らに
 主人公は魅せられ、次第に日本の文化を受け入れていく。基本的に「ダンス ウィズ ウルブス」と
 大変よく似たストーリーになっている。なかなか彼を受け入れようとしないが、一旦受け入れると
 良き理解者になる真田広之の役も「ダンス・・・」のインディアンの一人に似通っている。主人公が
 殺した勝元の弟の妻と子供達も、始めは当然の敵意を示したが、次第に彼とうち解けていく。(愛まで)
 「ダンス・・・」と違うところは、勝元が元明治政府の大立て者であり、英語を巧みに操る超インテリ
 だと言うことだ。西郷隆盛が英語に堪能だったか知らないが、西郷と陸奥宗光を足して近藤勇を
 振りかけたような人物に仕上がっているようだ。
 日本史に詳しくないアメリカの観衆には、なぜ彼らが政府に反逆するかが判らないまま、ストーリーは
 進む。(唯一の例外は断髪令・廃刀令で屈辱を受ける武士の姿。これは異国人にも共感出来るだろう)
 「BUSHIDO」という言葉は国際的に認知され、「武士道とは死ぬことと見つけたり」という有名な
 「葉隠」の一節も翻訳され、ちょっとした日本通には知れ渡っている。先祖伝来の鎧兜を身につけ、
 組織された明治政府軍を相手に、弓矢・槍刀で突っ込んでいく死を恐れぬ勇者たち。
 確かに明治の不平氏族の反乱には、そういったヒロイックな時代錯誤のリストラ士族達もいなかった
 訳ではない。西南戦争でさえ、農民で組織された政府軍の実力を甘く見すぎて、薩軍は大きな失敗を
 した。
 しかし、基本的に武士は勝つことを第一に考える人々であり、戦国時代の種子島=火縄銃の普及の
 速さ、幕府軍が幕末に持っていた巨大な西洋式陸海軍(装備は薩長にはるかに勝っていた。15代将軍
 徳川慶喜が大阪城を捨てて江戸に逃げ帰らなかったら、戊辰戦争の結果は簡単には決しなかったろう。
 しかし、維新の戦いの長期化は結果的に外国の介入を招き、日本の植民地かもあったかも知れない。
 そういう意味では坂本龍馬と徳川慶喜の日本史に果たした役割は大きい。)こういった事を考えると
 武士とは「勝つためには手段を選ばない人々」であった事がわかる。もし勝元の様な人物が実在し
 本気で明治政府にたてつく気なら、弓矢は無いだろう。函館戦争で、旧幕軍は銃砲の力で抵抗した。
 西南戦争でも、一時火力で政府軍を圧倒する場面もあった。
 しかし、制作者は勝元に開明的な思想を持たせながら、日本に武士の魂を失わせないように、あえて
 戦国時代前期並み(火縄銃ぐらい持たせろよ)の象徴的な装備で、近代軍に戦いを挑ませる。
 相手は明治天皇である。勝元は陛下の為だけに仲間と共に全滅する。確かに初期の明治政府は混乱して
 おり、天皇権力は小さかった。政商と呼ばれる人々の指導の元、急速に近代化した陸海軍は、兵卒に
 徴兵による平民を組織し、「戦う専門家」であった武士に重きを置かなかった。勝元のように武士道を
 失った日本の将来に危惧を抱く者があっても不思議ではない。300年にわたって「お上」に従うことを
 当たり前と信じて従う徴兵軍には、死を覚悟で、暴走する「お上」を諫める者はいない。
 浅田次郎「壬生義士伝」の主人公吉村貫一郎の死を斉藤一が「日本一国と引き替えにしても構わない
 男を失った。」と叫んだのは、勝ち目のない官軍に玉砕していったからではない。「武士が戦うのは
 妻子を守るため、お百姓を守るため、そのため義を貫かねばならぬ。」という信念を、時代に翻弄
 された新撰組の中で、たった一人守りぬいたからである。ただ「お国のため」死んでいくのが、武士道
 の様に、戦時中はもてはやされたが、誠の武士ならそもそも太平洋戦争に突入したりしない。その前に
 「脱亜入欧」をスローガンにしたりしない。
 もちろんこの映画はファンタジーであり、時代考証を云々しても始まらない。しかし、本当に勝元が
 存在したら、政府軍の火力をいかに封じるかを考えるだろう。政府軍の歩兵銃は幕末以来の先込め
 単発銃のようである。連発銃は無理でも、戊申の戦いで広くこの銃の扱いになれた者は、勝元の元に
 多く集まったはずだ。アメリカ先住民に比べれば、金を算出し、絹糸や茶の輸出で巨額の富を得た
 日本には、多くの火力が温存されていた。政府軍の大砲と新兵器ガトリング銃(回転式機関銃)さえ
 封じてしまえば、あとは戦の経験の差で少数の不利を逆転することが出来る。それが武士と言うもの
 である。(勝元を襲う忍者まで生き残って居たのだから、勝元側の忍者だっていても不思議でない)
 劇的な結末は言わないでおくが、決して後の日本史に、勝元の命を懸けての教訓は生かされなかった。
 もし勝元達が、武士道を持って戦い、勝ったら、日本史は変わったかもしれない。
 映画では明治天皇は、確かに勝元の遺志を良しとされたが、本当に日本軍に誠の武士道が受け継がれ
 たのか?確かに人命軽視の思想は受け継がれたようで、パイロットを守る装甲を省略して、旋回性能と
 巨大な機銃を搭載した零戦などは、武士道的兵器なのかもしれない。もっとも、大馬力のエンジンを
 作れない(燃費の面でも)という制約が、「撃たれずに撃て」という特異な戦闘機を生み出したので
 あり、最初から一人前にするのに何年もかかるパイロットの命を粗末にしようとしたわけではないが。
 これは無鉄砲に暴れ廻った新撰組が、もっともきっちり首の廻りから小手先まで鎖を編み込んだ胴着を
 着ていたことからも判る。いざというときには命を捨てるが、なるべく負けない事を第一に考え
 知恵を絞るのが武士であろう。その点勝元らの最後の戦いは物足りない。(弓矢だもん) 
 多勢に突っ込んでいく武士達の死に様を「BUSHIDOU」として賛美するなら、
 「アッラーアクバル」と叫んで自爆する人々を、ハリウッドはなぜ賛美しないのか?
 やはり、この映画は「ZEN」や「BUDO」や「NOU」が大好きな、日本趣味のアメリカ人が
 作った、なんだか変な国の映画である。なんだか私には勝元が学徒動員され、特攻で死んだ大学生に
 見えてくる。彼の死が無念でなければ、ただの蛮勇賛美映画である。
 そして、主人公の日本文化への共感も小泉八雲ほどではない。