キョンシーSの
     ピンポンダッシュ!


      ★004 本と「本」

  最近本を良く読む。マンガも小説もである。(金が無いので図書館がたより)
 ところで、今年の新春から、大河ドラマと月9でビッグネームが激突している。
 キムタクと香取ではない。脚本の三谷幸喜(古畑任三郎、王様のレストラン)と野島伸司
 (聖者の行進、高校教師)である。正直、両方とも×。
 「新撰組」は題材が重すぎる。軽妙洒脱な三谷でも、最後は陰惨な粛正の歴史、その後は
 さっさと大政奉還した幕府に取り残され、完全な悪役扱いされた浪人(と武士になりたかった
 百姓・町人)。そういう結末が約束されている集団は、どう書いても難しい。
 「武士とはこういうものだ。」と真っ直ぐに進む近藤勇は、本物のイメージどうりなのだろうが
 結末に、どう結びつけるのか・・・。試衛館に次々集まってくる仲間たちの「後の新撰組○番
 隊長誰それ」というテロップを見ると「ああ、この人は後に裏切って殺されるんだよなあ」とか
 いろいろ考えてしまう。龍馬もすでに友達だが、後でどうするつもりか?
 最近では龍馬暗殺は薩長の陰謀で、新撰組は濡れ衣を着せられたというのが定説になったが、
 (龍馬の目指した雄藩政府は徳川慶喜に影響を与えたので新撰組に彼を恨む筋合いはない。龍馬が
 生きていたら、薩長土肥の藩閥政治は絶対許さなかった。故に新撰組が彼を殺す理由は少なくとも
 あの頃にはもうなかったし、薩長にとっては生きていては困る人だった。)
 桂小五郎も知り合いだしなあ・・・もう。ま、1年あるので、お手並み拝見というところか。
 三谷はハッピーエンドでない本も書いているので(「ふりかえれば奴がいる」でしたか)、
 徹底的に時代に裏切られてボロボロになる新撰組を、きちっと書くかもしれない。
 一方の「プライド」は最悪の出来。登場人物が浅い浅い。主人公の友達が主人公の不幸な生い立ちを
 ぺらぺらしゃべる。次の回ではその友達の不幸な過去を主人公(だったか?)がぺらぺらしゃべる。
 僕のペンネームの元となった、故ナンシー関大先生は野島伸司を絶対に認めなかったが、本当に
 ご都合主義で、情けない「本」しか書けない人だ。どうせキムタク夢物語としても、「Good Luck」
 や「ヒーロー」の方が良かった。「ぶっちゃけ」は流行ったが、「メイビー」は失笑されている。
 高い金出して、書かせる「本」じゃないね。最近の脚本家で最も素晴らしかったのは浅野妙子。
 NHK11時ドラマの「ちょっと待って神様」である。この「本」は根強いファンを持つ大島弓子の
 傑作短編マンガ「秋日子かく語りき」を計5時間の長編にまとめ上げた。この台本は素晴らしい。
 主演の泉ピン子は同主演の(どちらが助演と言っても失礼な出来)宮崎あおいに自分ならこうしゃべる
 というせりふを全てテープにして渡したそうだ。主人公の平凡な主婦竜子は、この世に未練を残し、
 しばらくの間、女子高校生秋日子の身体を借りる。だから、竜子の乗り移った時の秋日子は泉ピン子
 ばりに演じなくてはならないのだ。演じきった宮崎あおいも見事(この人、単なるCMアイドルでは
 ない。もうすでにナント映画祭主演女優賞を「害虫」で受賞したジョディフォスターの再来と言われて
 いる注目の女優さんでした。知らぬは日本ばかりなり)。とにかく大御所ピン子がそこまで入れ込む
 「本」なのだ。「本」の良さが低予算の名古屋放送局の情熱を生み、脇役まで全てが大熱演という
 大傑作を生んだ。「if 打ち上げ花火、上からみるか横から見るか(岩井俊二監督のデビュー作)」
 以来、久しぶりにれっきとした映画賞をテレビ作品が取るかもしれない出来である。
 さて「本」と言えば映画「あずみ」の大コケは脚本のせいだと思う。「あずみ」は小山ゆうの長編時代
 マンガで、主人公あずみは、戦国時代を終わらせ徳川の太平を築いた陰の主役。加藤清正も豊臣秀頼も
 徳川家康も!伊達政宗も彼女の手に掛かり、宮本武蔵の生涯で勝負が決しなかった唯一の剣士。60人の
 野武士をたった一人であっというまに退治した、見えないほどの早業で相手を倒す。プロデューサー某
 (名前を調べるのも大儀)はメイキングで「何人もの脚本家・監督が後込みした。」とうそぶいていた
 が、そりゃそうだ。この大作を映画化するには「ロードオブザキング」並みの根性が居るだろう(でも
 「指輪物語」愛読者には、あの映画はいまいちだったけどね。原作の持つ旅の匂いがしないこと、
 悪役のゴブリンやトロルが、あまりにも気持ち悪いこと。この2点はおおいに不満)。
 主演の上戸彩もがんばったしアクション映画で一発当てた監督も面白かったが、なにぶんよい脚本家を
 得られず、プロデューサー本人が書いたため、原作の持つテーマが全く半減した。あずみは強いだけ
 じゃないのさ。あずみを映画にするのに殺陣なんかどうでもいい。だって小山ゆうはほとんど書いて
 ないもの。相手があれ?と思うまもなく、刀が触れ合うことなく、あずみは頸動脈を切断している。
 問題はあずみはどうして人を斬るのか?それがきちっと描かれてなきゃ、失敗は見えている。殺陣の
 スピードなど特撮でどうにでもなるが、テーマが描けない「本」は失敗である。
 そういう意味で、スーパーシンガー宇多田ヒカルのヒモ(ゴメン)がプロデュースする「新造人間
 キャシャーン」も嫌な予感ぐつぐつである。宇多田パパチームがヒッキーのプロモビデオで見せた
 夢のCG世界(世界一だと本当に思う)を駆使するので、映像は期待ぐつぐつであるが、アニメ界で
 「フランダースの犬」とならび称される重〜いテーマのこの作品をちゃんと描けるのか、予告編に
 よると原作とは筋が違うようなので、少しほっとしている。その方が無難。このにいちゃんが果たして
 「天才が惚れた天才」なのか「天才の悩みにつけ込んだヒモ」なのか、この一作で決まる。
 余談だが、日曜7時台にNHK教育で再放送されている復刻版「ひょっこりひょうたん島」が今
 最も重い場面にさしかかっている。「グレートマジョリタンの巻」である。元シカゴギャングの
 愛すべき保安官マシンガンダンディが全編中一度だけ本性を見せる。島民の為とは言え、魔女を
 殺すのである。いのうえひさしはその場面を描かなかった。ダンディはハカセに「俺は今魔女を
 殺してきた」と言うだけであった。でも少年だった僕には、ものすごいショックだった。あのかっこ
 いいダンディさんが人殺し?ま、シカゴギャングなんだから、人も殺して来ただろうが・・・。
  最近話題の映画は「壬生義士伝」である。浅田次郎の原作を昨日まで読んでいた。物書きになりたい
 という気持ちがくじけそうになるほどの圧倒的な作品である。無名の新撰組隊士を主人公に、武士道
 ではなく、男の値打ちは家族を護ること。という素晴らしいテーマを、幾人もの証言者の言葉を織り
 なしながら、描いた傑作である。これを題材にして2時間余の映画にまとめるのは難しいが、ある意味
 楽である。主人公吉村貫一郎の生き様だけにスポットをあてても、十分に感動的映画が出来るから。
 でも、新撰組の末路、南部の人々の生き方。貫一郎の子供たちのその後。そういったサイドストーリー
 がきっと映画には描き切れないだろう。「俺は一国と替えてでも殺してはならぬ、かけがえのない男の
 命を見殺しにしてしもうた。」という言葉は、元自衛隊員で、イラク派兵にも反対している浅田次郎が
 明治以後の日本が置いてきてしまった、もし置き忘れなかったら絶対あのような愚かな戦争の泥沼に
 陥らなかった本当の日本の心を代弁している。小泉はミーハーだから、この本や映画を「感動した」
 とかいうんだろう。あの男には、この本の本当の凄さはわかるまい。ともあれ、映画は期待できそうで
 ある。中井貴一は主人公のイメージをそのまま演じたことだろう。「ラストサムライ」がいいんだそう
 だが、本物の武士とは自分たちを食わせてくれる百姓を守るもの。右傾化していくこの時代に、この本
 は読む人の力量を問う快作である。乞うご一読。
  あとは「嗤う伊右衛門」が期待の映画。四谷怪談をテーマにしながら、壮絶な愛を描ききった、あの
 京極夏彦の原作。京極夏彦と言えば、直木賞をようやく貰えた。おめでとう。10年遅いと思う。
 受賞作の「後巷説百物語」の前の作、「巷説百物語」がアニメ化されて深夜に放映され、話題になった
 が、第1回めの最初を見て、すぐ消した。なんであんなおどろおどろしい絵にするのか?音楽も効果も
 今風「ゲゲゲの鬼太郎」だ、全く・・・京極先生はよくあんなもの許したなあ。京極作品には(なんと
 「嗤う伊右衛門」にさえも)一度も妖怪や幽霊が登場しない。生身の人間の情念の方がよっぽど怖い
 からである。「巷説百物語」をアニメ化するなら、例えば石の森正太郎の「佐武と市捕物帖」のような
 原画で無くてはならない。あるいはマンガを書いていた頃の杉浦日向子の絵のような。「カムイ伝」
 のような劇画調は駄目なのだ。「鬼平」や「剣客商売」のさいとうたかおの劇画と、TV版の鬼平
 中村吉右衛門や小兵衛の藤田まこととどっちが原作に近いか?そう考えると実写版の「伊右衛門」は
 期待できる。ただ、京極作品に慣れた読者でないと、「これは愛の物語だ」と判らないストーリー
 展開の話なので(ネタバレだが、映画宣伝で言っているのでいいだろう。伊右衛門と岩の、である)
 映画でどこまで描けるか、表面上は最後まで2人の心は許しあわず、愛の告白もないのだから)
 京極先生が文章の隙間でしか描かなかった世界を、映像で描ければ、世界に出しても恥ずかしくない
 傑作になることだろう。
  ともあれ、いつの時代にも話題になる、本=原作、と「本」=脚本→映画との関係を、いくつかの
 例を挙げてみた。「ハリーポッター」のように読者を驚喜させた忠実な映画化もよし。枝葉をあえて
 切り落とし、美味しい酒が米の中心部だけで作られるように中心テーマだけを描くもいさぎよい。でも
 ほとんどの「本」は原作を超えられず、汚してさえいる。難しいが、だから映画は面白い。