ナゴヤからの手紙
 
2016年5月
 
「お散歩範囲の歴史探訪」
 
                    今回も全てiPhone6です
GWに大きなイベントがあった為に、ちょっと抜け殻状態の5月ですが、
とりあえず、なんかナゴヤネタを探さねばと思ったのでした。
地下鉄にちょっと面白そうな神社の広告があったので、とりあえず今回は
これでと、近場である事を良い事に、自転車で出かける事にしました。
幸い天気は快晴。暑い位の陽気です。
 
 
 
なぜか朝から独り焼肉。しかも牛タン。色々事情はありますが、今回は
そのへんは飛ばします。
とりあえず出発。
 
 
我が住まいの天白区平針から北へ向かうと、すぐ日進市。このあたりは
住宅が密集した名古屋のベッドタウンであるにもかかわらず、
水田が広がっています。とはいっても、30年程前に比べると減りましたが
 
 
今回目指したのは日進で一番格があるらしい、白山宮という神社。
もの凄い坂道を自転車を押して(情けないがちょっと無理だった)登ると
山頂に神社が。
 
 
今回の目当ては、この由緒正しそうな立派な神社ではなく、その横の小さな社
「足王社」という珍しい社です。
検索してみると、足王神社というのが岡山にあり、梶浦勘助という給人が
アシナヅチ、テナヅチの2神を自分の屋敷内に祀っていたところ、特に
足の病に関するあらたかな霊験があり、広く村人にも公開した。とあります。
「和田村の給人 梶浦勘助」とあり、なんか村の顔役みたいなイメージ。
給人って、そのままサラリーマンと翻訳しそうですが、調べてみると、給人
とは、給米を藩から貰って暮らす下級武士ではなく、藩の中に所領を持ち、
そこであがる年貢を収入としている上級武士で、勘助さん自体、後に郡代まで
出世した上級武士な訳で、
「おや?うちの庭にある社は霊験あらたかだ、下々にも拝ませてやろう」
なんて、気楽に公開する身分の人じゃないのですが、立派な方だったので
しょう。たちまち足の病に悩む人々に、深い信仰を得る様になったのでした。
 
ちなみに、アシナヅチの”ナヅチ”は、千石撫子さんと同じ、撫でるという意味
父のアシナヅチは足を撫で、母のテナヅチは手を撫でて、可愛がって末娘の
クシナダヒメを育てたのでした。クシナダも櫛で撫でるなので、この子は
頭から手から足から撫でられて可愛がられて育てられたのでしょう。
ヤマトナデシコも、そうやって育てられた箱入り娘の事を言ったそうです。
で姉さん達は?と言うと、毎年一人づつ恐ろしい大蛇に人身御供に差し出され
喰われていたのでした。
「とうとう末の娘まで」と嘆く両親の所に、ふらりとやってきた危険な男
スサノオノミコトが、この大蛇ヤマタノオロチ(キングギドラとも言う
(嘘))を退治して、クシナダヒメを妻に迎え、出雲にマイホームを築く。
という、英雄サガの、あのアシナヅチなので、娘の足をなで回す娘好き過ぎ
親父(失礼、一応神様だった)ではあっても、足の病に効く神様では
もともとないのですが、勘助さんちの社が、なぜかブレイクしてしまったため
各地にこのお札を貰って行き、祀ってしまうと言う事も流行したようです。
 
この日進界隈には飯田街道という、東海道の支街道があり、古くから信濃に
物資を運ぶ商人が行き来しておりました。
というわけで、地蔵さん程ではないが、足王さんの小さな社も結構街道筋には
あったんじゃないかと思います。
本来神社で貰ってくるお札というのは、その神の分社と同じで、家の神棚に
祀って拝んでた訳ですから、岡山のありがたい勘助さんの社のお札を貰って
来て、祀っちゃう人もいたのでしょう。
近くの山本さんちに祀られていたのを、白山宮に勧請したものらしいのですが
全国的には岡山以外では足王信仰は廃れて行く中、なぜかこの日進の足王社は
小さい祠ながら生き残った。
 
写真取り忘れたので史料映像
 
平成の神社修理の際に、足の形の石?が出てきて、
「これは霊験ある足石に違いない」さすってありがたがった人の腰が
治った!とかで、またフィーバー。
この小さな祠はもうすぐ立派に改築されるらしい。
ここまで、お膳立てが出来て、仕上げは
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
 
 
足王ってスポーツシューズのブランドにもあるらしい。もうまったく
サッカー神社じゃないか!
偉大なる信仰誕生のプロセスですね。
こうなれば日本ハンドボール協会もテナヅチを祀った神社を探し。
というわけで、巧みなマーケティングもあり、足王社は、ちゃくちゃくと
メジャーへの道を歩むのでした。
 
 
もちろん、奉納される絵馬には切実な病平癒の祈りも多いのですが、
「そうだ!サッカーだ!」と思いついた了見は、ちょっと生臭いかな?
当日は足王祭という事で、サッカー上達や足病平癒を願う善男善女が
音連れていました。
屋台が出る程ではないが、さらに人気が出るのは時間の問題か?
まずは大企業本社の屋上にありそうな規模(というか百葉箱?)の祠を
大きくして。と。
氏子マーケティングの足音が聞こえる。
 
さて白山宮と足王社を後にして、自転車で5分程。
視界にいきなり江戸時代が現れます(表題写真)
 
 
このへんの光景はまさに時代劇ロケ地じゃないですか、
金属パイプの手すりがなけりゃね。
ここは、史上名高い岩崎城ですね。名高いと言ってもここにお城があったのは
戦国時代。
 
小牧長久手の戦いで城代丹羽氏重と共に落城しましたが、これは戦略上大変
大きな戦いであり、関ヶ原じゃありませんが、家康の
「天下分け目」であったと言われます。
小牧長久手の戦いは、織田信長の跡目を巡っての織田家のお家騒動に、
二大巨頭、明智光秀を討って織田家臣群のトップに立った羽柴秀吉と、
織田信長でさえ、若年の頃から家来と呼ばず同盟者とした実力者の徳川家康の
両者が乗っかって激突した戦いであった訳ですが、どちらも一方を滅ぼす力は
持っておらず、今後の力関係を確定させる為の、極めて政治的な駆け引き
でした。家康にとっては負けなければ勝ち、秀吉にとってはぜひここで
家康を圧倒し、天下を確実に自分の物にしたい所でした。
 
そういう駆け引きの中、決着はなかなか付かず、秀吉家臣の池田恒興の進言で「三河中入り」と言われる作戦が立案されます。
これは、犬山と小牧(どちらも名古屋のかなり北)に陣を構える秀吉と家康の
はるかに南部の三河地方まで深く入り込んだ池田軍が、岡崎方面まで入り込ん
で家康の本拠地をかく乱する、という作戦で、
これほど長距離にわたる極秘作戦を成功させたのは、史上織田信長だけ、
という難しい作戦です(桶狭間の戦い)。
三河に入る前、長久手から少し南に下りた、現在の日進市岩崎に織田家の
城であった岩崎城があり、当時は家康に臣従していた土地の土豪丹羽氏の
丹羽氏次が守っていました。この丹羽氏はかつては信長の家臣で、先祖は
足利氏支流の一色氏と言われますが、信長、秀吉の家臣として有名な丹羽長秀
(こちらは桓武皇子の良岑安世の子孫)とは血縁はなく、それほど大きな勢力ではありませんでした。
 
城主の氏次は家康に従って小牧におり、岩崎城には弟でわずか16歳の氏重が
城代として200人の手勢とともに城を守っておりましたが、午前4時頃
みなれぬ大群が南下してくのを発見し、羽柴勢と気づくや、果敢にも城を
討ってでて奇襲を掛けます。
挑発に乗った池田隊は、秀吉から
「絶対に寄り道をせず、まっすぐ三河を目指せ」と言明されていたにも
かかわらず、岩崎城に攻め込み、城を落とします。
丹羽氏重は若い命を散らしますが、結果的にこの数時間で、夜は明け、
池田中入り隊は三河奥地に入り込む前に、弟からの知らせを受けて小牧を出た
丹羽氏次に先導される形の家康隊の急追を受けて、長久手で合戦となり、
大将三好秀次(後の豊臣秀次)は敗走。急ぎ戻った池田恒興も戦死します。
こうして小牧長久手の戦いは、本体同士の激突前に、羽柴の別働隊を家康が
叩きのめす事により、秀吉が手を引いて終わり、天下人になってからも、
秀吉は家康に一目置かねばならず、結果的に秀吉の死後、関ヶ原→大坂の陣で
家康が天下をとる、大きな戦略的ターニングポイントだったと言われます。
そのきっかけとなった、丹羽氏重以下200名の敵発見とその後の勇猛(全員
戦死)を家康は大いにたたえ、兄氏次は加増されます。丹羽氏次はその後も
関ヶ原の戦いで殊勲をあげ、ついに丹羽氏は大名になりますが、悲劇の弟を
兄が意識しなかったとは思えません(落城に間に合わなかった無念。16歳の弟を留守番のつもりで残してしまった後悔。弟の勇猛への誇り。”弟の七光り”
などと言われない為の覚悟等、ドラマになる兄弟物語ですね)。
 
徳川家の恩人とも言えるこの岩崎城の戦いは、江戸時代に入っても有名で
あったらしく、特に主君丹羽氏が豊田市方面に国替えになったあとも、
岩崎村の住民は語り継いでいきました。
「氏重様(池田勢は首だけ持っていったが、氏次が奪還)他家来衆200名の
ご遺体を清めた川の水は、真っ赤に染まったそうじゃ」
って、それって家の近所を流れてる天白川の上流じゃん!
城跡は畑になっていたそうですが、わずかに残った当時の庭石に、住職が
言葉を刻んで石碑とし、現在も残されています。
 
 
 
農業地帯にある城跡。しかも戦国時代の話ですので、当時の日進町がこの
岩崎城遺跡を調査し、公園として整備する際に建造された岩崎城(あくまでも
展望台)が、私でも判るほど江戸江戸しており、全く戦国の城らしくない事は
若干残念ではあります。
城内に展示された、鎧兜も本物の戦国時代のものでも、そのレプリカでもなく
じつは紙で作られた工芸品。というのも、なんだかなあですが、
なまじ変な模造品を置くよりは清々しいかもしれませんね。
ちなみにこの城が作られたのはバブル全盛期。一年後に竹下首相のふるさと
創世金、一億円が各自治体にばらまかれた頃ですので、城もこんなに
なっちゃったのでしょう。
「後付け感満載」でございます。
足助町の香嵐渓一の谷に、本格的な戦国期山城が再現されているそうですので
このもやもやは、今度そこではらしましょう。
 
史料映像(平成になって日本で初めて再現された戦国の山城)
 
↑バブルの頃に比べると地味に見えますが、結構真面目に金かけてます。
名古屋城本丸御殿もそうですが、当時の建築方法そのままで再現するのは
金がかかりますね。コンクリでも良かったですが、外見は当時のままで
あって欲しいです。
 
とは言っても名目は”展望台”ですので、展望はなかなか見事でした。
名古屋のベッドタウンとしての、日進市の住宅がいっぱいに広がります
さぞかし夜景は奇麗でしょう。展望台には登れないでしょうが。
 
 
 
隣の資料館の5分映画の岩崎城の戦いはなかなか勉強になりました。
城内にあった紙製鎧兜のもっと簡易版の作り方みたいのがあり
「ご自由に」だったので、完成サンプルをかぶってみました。
 
 
Twitterで師匠に送ったら吹かれました(笑)。
”Oh! it’s cool! SAMURAI HELMET Wao!とか言ってる外人のおっさんの真似
 
 
こういう城跡は、調査中に古墳が出てきたりしますが、ここも円墳があります
ただし損傷が激しかったので、近隣の円墳を参考にして、石室を再現した
そうです。児童生徒の教材としてはいいでしょうが、史料価値としては
どうなんだろう?ここにも後付け感のもやもや。
 
 
 
これが件の石碑。庭石としては大きな物ですね。江戸になってから、この
戦いを良く知る老人が訪れ、
「ああ、ここが庭だった。この辺が座敷でなあ」と荒城の月みたいな
感慨にふけったとありますが、
この庭石がある庭は、戦国時代らしい豪壮な庭だったのでしょう。
丹羽氏の庭師はいい庭師。なんちゃって。
 
 
現代の庭石。ではなく、お城外のトイレ標識。こっち男
 
 
 
女は長刀。これは結構好きですね。後付け感がなく。
 
ちなみに前から気になっていた日進市の日進ですが、日本の地名は
原則訓読みが殆どで、音読みはたいてい現地の寺の名ですね。
例えば私の職場最寄り駅の”浄心”は浄心寺から来ています。
でも日進寺はない模様。
ですから日進という名は地名ではなく、後世の後付けですね。
 
調べてみたら、1906年に香久山村、白山村、岩崎村が合併し、名前を決める
時、三菱東京UFJみたいなアホなことにならず、直前にあった日露戦争は
日本海海戦で大活躍した重巡洋艦”日進”から取ったらしい。日本海海戦の
大勝利は、当時の日本国民にとっては(他のアジア・アフリカ諸国でも)、
大歓喜のニュースで、当時の国民は連合艦隊の船名をソラで言えたらしい
(いまのアニメオタクも言えるが(笑))。まあ今なら
「五郎丸町」とか付けちゃう感覚か?(犬山に五郎丸という地名はある)
「三笠(連合艦隊旗艦)市」とかになったかも知れない。
 
                   史料映像
 
この日進という軍艦は、アルゼンチン海軍から買ったイタリア製新鋭艦で、
アルゼンチンがチリと戦争しそうになって、あわててイタリアの造船会社に
発注したが、戦争が回避されたので要らなくなったのを、日本とロシアが
競争で入札し、日本が破格の高価格で買い取った物だそうです。姉妹艦春日と
共に日本に運ぶおり、ロシアに沈められない様、わざわざ英国の回船会社に
搬送を依頼したと言います。本当に最新鋭艦だったようですね。
日本海海戦では、旗艦三笠の護衛に当っていた為に、有名な敵前大回頭
(全ての艦が一列に方向を90度まわす。完成するまで敵の砲火を浴びるが
当時の艦の主砲は横側に集まっていたので、敵の前で横一列に並んだ後は
好きに討ち放題になる)の際、一番ロシアの標的となり、死傷者も多かった
らしい。若き日の山本五十六も日進に乗ってお大怪我をしています。
「主君の弾よけとなる」
このへん、岩崎の人々のメンタルには岩崎城がかぶって、共感がビンビン来た
のかもしれませんね。
 
あと、私の亡き母の実家が丹羽姓なのですが、丹羽氏はこの尾張由来の
二系しかないそうで、一色系なのか良岑系なのか、聞いときゃ良かったと
思っております。一度叔父に聞いてみよう。
家の母方の家系には、菅原道真直系とか、平安遷都の時に奈良から移ってきた
商人とかあって、なかなか面白いのです。